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坂・橋・階段 ― ひなた荘という他界

安田英之

 幼い日々の記憶とその混乱というのは、 幼なじみを扱った各種媒体でしばしば取り上げられるテーマだが、 『ラブひな』[1] は、幼なじみの相手が誰であったか、 さらには幼なじみの存在そのものを、当事者たちが明確には記憶していない、 という意味において、 幼なじみ幻想の幻想性をつきつめた形で表現していると言える。
 本稿では、幼なじみ友の会入会に際する筆者のポジションペーパーとして、 ひなた荘という空間の位置づけとそれが支える対幻想とを通じて、 現代消費社会を生きるわれわれが幼なじみ幻想に何を仮託しているのかを考察する。

三重の境界領域

 アニメ版ラブひなにおいて、東大のある東京とひなた荘の間には、

という三つの領域が存在する。これらはいずれもある空間と他の空間、 しばしば日常的空間と非日常的空間とをつなぐ境界と解釈される領域である。

 赤坂憲夫は『異人論』[2] の中で坂や橋の境界性について以下のように述べている:
 街道の要衝であり、他国・他村との境でもある橋や坂には、古くから神霊・ 神異の示現にまつわる伝説や昔話のたぐいが数多く残されている。橋が「端」、 坂が「境」を含意することはおくとしても、橋や坂は機能からして、 未知と既知・彼岸と此岸をつなぐ両義的空間である。
 そうした此岸 (秩序) と彼岸 (混沌) をむすぶ両義性の濃厚な場所は多く、 禁忌された〈聖〉なる空間である。それゆえ、橋や坂のまわりには、 境界をまもるべき神である橋姫や坂神が祀りおかれた。

 『竜潭譚』[3] にはじまる泉鏡花の一連の作品や CCさくら 1999年劇場版 [4] でモチーフとなっているように、 水は他界あるいは他界への境界領域を象徴するが、 中でも川は仏教における三途の川、ガンジス川やライン川信仰 [5] などに見られるように聖性を色濃く映す。川を渡る橋もまた、 同様に神聖な「彼岸と此岸を結ぶ絆」と考えられた [5]。
 原作中に存在するのが温泉街の中を流れる数m 程度の幅の川だけだったのに対して、アニメの設定では、 市街地と温泉街との間に湯煙橋 [6] と呼ばれる長い橋がかかった大きな川が追加されており、 預言者めいた老人たちとあいまって、境界性はいっそう強調されている。

 階段も境界領域である点において坂や橋と共通するが、 境界性に加えて、 段を一歩ずつ踏み締める過程における心身の変容という象徴性をも併せ持つ。 飯島洋一の『天と地をつなぐ階段』[7] には以下のような記述がある:
 実際のところ、創造神話では、古来、 階段はある精神が一つの段階から別の段階へと昇ってゆくこと、 また世俗からの超越や天と地との交感、あるいは聖域へ入り込むことを象徴していた。
 ……またエジプトのピラミッドや、古代バビロニアや、 アッシリアのジグラットの神殿の階段は、先にも述べたような「忘我の旅」 「精神界への上昇」を象徴しているが、 それも階段を昇りながら別の位相に自分自身を転移させることを示していた。
 これを裏付けるかのように、成瀬川なるはひなた荘前の階段で 三つ編みと眼鏡という異装を解いて見せる [1]。

 坂・橋・階段の三重の境界領域という、 これほど執拗な位相的・意味的な隔離が必要なひなた荘には、 いったいどのような役割が課せられているのだろうか。

唐破風を備えた温泉旅館

 ひなた荘は単なる女子寮ではなく、温泉街の中にある廃業した温泉旅館である。
 6巻の地図によると、ひなた温泉が存在するひなた市は、神奈川県東部の海岸沿い、 現実の世界では横浜市から鎌倉市に相当する場所に位置する。 むろん現実のこの地域にこれほど本格的な温泉街は存在しない。 なぜあえて温泉旅館という無理な設定を設けたのだろうか。

 ひなた荘のモデルは、山形県と岩手県の某温泉の二つの旅館、 としか公表されていない [8]。しかし写真を見るかぎりでは、 ひなた荘の基本部分は山形県銀山温泉の小関館、 ひなた温泉も銀山温泉がそれぞれモデルになっていると思われる [9]。
 ひなた荘が小関館と大きく異なる点は、玄関の上の唐破風である。 小関館は、せり出した中央部分に千鳥破風が乗っている点など、 二階以上はひなた荘本館南正面と酷似しているものの、 玄関部分には目立つ意匠はない。 唐破風はひなた荘に意図的に追加されたものと思われる。
 近代和風建築における唐破風は、 豪華さを表現する桃山風の意匠と解釈されるのが一般的だが [10]、 寺社建築を連想させることから、 非日常性・聖性をあらわす側面をも持つ。
 唐破風が付加されたことから考えても、温泉旅館という設定は、 外部の現実社会から離れて一時心身を癒すための 非日常的な空間を表しているのではないだろうか。

 ところで、 唐破風を持った建物として描かれることが多い建築物はもう一つ存在する。 浦島伝説に代表される竜宮譚の中の竜宮である。

南方につながる海上他界

 浦島・乙姫・玉手箱・亀といった竜宮譚からの引用が『ラブひな』 に繰り返し盛り込まれていることは指摘するまでもない。ひなた荘には、 浦島太郎と乙姫とが共同生活を行なう竜宮 = 海上他界のイメージをも重ね合わせられている。

 沖縄の乙姫むつみの実家の島・ 南太平洋のパララケルス島と漂着を繰り返す浦島景太郎の姿は、 海上他界を目指して補陀落渡海に乗り出した中世熊野の山伏や聖に重なる [11]。 また、「アジアの南の島」[8] の出身であるカオラ・スゥの存在やパララケルス島の「カメ文明」は、 近代における海上他界伝説の屈折した形である南洋ユートピア幻想につらなっている。

ネヤドとしての女子寮

 最後に、女子寮というひなた荘本来の役割についても考察する。
 学生寮および下宿屋が、民俗学における寝宿 (ネヤド) の役割を果たしていることを指摘したのは大塚英志である [12]:
 ……しかし、コミックの世界に於てはしばしばこの様な、 帰属すべき家から切り離されたもう一つの〈家〉における同居、 というモチーフが取り上げられてきた。……
 ところがこの様な〈同居〉は視点を変えて、 日本の民俗文化の位相の中で考えた時、それはむしろ一般的なケースとなる。 思春期にさしかかった子供が親もとを離れて、 生家とは異なる家に移り住む習俗が日本の民俗文化の中に伝統的に存在するのである。 ……
 通過儀礼とは通常三つのプロセスに分けて考えるのが定説である。 ファン・ヘネップによれば通過儀礼は〈分離〉〈移行〉〈再統合〉 の三段階を経るものであるという。 すなわち通過儀礼を受けるものはそれまで彼が所属していた集団や場所・ 地位などからいったん切り離される (分離)。 そして彼は社会から分離された曖昧な状態に置かれる (移行)。 最後には彼は再び社会に引き戻されて新しい集団に帰属したり一段上の地位を得る (再統合)。先程のネヤドの習俗にこれを当てはめると次の様になろう。 子供である段階では彼は生家に所属している。社会的な役割においても〈子供〉 として存在している。子供はまず生家から〈分離〉され、 ネヤドで〈移行〉期をすごす。そして結婚を機会に新宅をつくり〈夫〉〈妻〉 という役割と持つ存在として社会に〈再統合〉されるのである。

 ひなた荘の住人はいずれも学生・浪人生・ フリーターという移行期の存在である。 一応社会人である浦島はるかだけが ひなた荘から分離された和風喫茶「日向」にいるという設定も、 ひなた荘のモラトリアム性を純化するためではないだろうか。

 以上、ひなた荘をめぐる温泉旅館・竜宮・女子寮という設定はすべて、
外部空間からやってきた主人公が、再び外部空間へ帰還するために、 一時的に共同生活を行なう非日常的な内部空間

という共通の性質に還元され、坂・橋・階段は、 内部空間を外部空間から切り離す役割を果たしていることを見てきた。

 では、その空間で暮らす浦島景太郎と成瀬川なるはいったいなぜ、 幼なじみでなければならないのだろうか。

崩壊する共同幻想

 稲作に由来する民俗儀礼を捨て去った日本人にとって、 大学受験は残された数少ない通過儀礼の一つである。しかし、 受験の聖性を裏付ける役割を果してきた学歴社会そのものが崩れつつある今、 明治以来続いてきた「東大に入れば幸せになれる」 という大いなる物語 = 共同幻想はもはやリアリティを持ちえない。
 『東大一直線』[13] の主人公東大通がまがりなりにも受験勉強に専念していたのに対して、 『東京大学物語』[14] の村上直樹は受験と恋の板挟みに悩んでみせる。 しかし、この二人の差はあくまで、 共同幻想の対象たる東大と対幻想の対象たる女性に それぞれどれだけの価値を見出すかという点に限定されており、 いずれも東大という共同幻想を前提にしている以上、本質的な違いとは言えない。

 この共同幻想が失われた世界で、 内部空間を出た人間が帰還すべき東大という外部空間は、 帰還に値する外部でありつづけるために、 従来の共同幻想に代わる何らかの物語を備えていなければならない。

幼なじみという共同性

 この命題に対して『ラブひな』が提示するのは、「二人でトーダイに入れば幸せになれる」という対幻想 = 二人だけの物語である。
 景太郎には立身出世への野心はまったくないばかりか、学問追求の意志も 7巻でようやく萌芽が見られる程度にすぎない。景太郎の苦悩は、 過去に約束した女性と今恋をしている女性のどちらと一緒に東大に入るか、という、 従来の東大幻想を基準に考えると信じがたい二者択一に関するものだ。 一方の成瀬川が東大を目指す動機も、 2歳のときに誰かと交わしたらしい一緒にトーダイに入るという約束と、 家庭教師の東大生・瀬田へのあこがれ、という、景太郎と同種のものである。
 ここでは、 東大受験はそれ以上の意味を持たない純粋な通過儀礼として昇華されており、 東大は幼なじみとの約束の対象というだけの、 他の任意のもので代替可能な記号に変質している。

 共同幻想の代用物としてのこの対幻想には、 失われた共同幻想に取ってかわるのに十分な物語性・歴史性が要求される。 温泉旅館や竜宮というひなた荘の属性は、 それらの他界性を通じてひなた荘を外部空間から切り離すとともに、それらの物語性・ 歴史性によって幼なじみ幻想を補強するという二重の役割を果たしているのではないだろうか。

おわりに

 企業社会・国民国家といった共同幻想が失われようとしている現在、 やはりわれわれには、共同幻想の廃虚の上に対幻想を構築することからやり直すほか、 道はないのだろう。しかし、 妹属性の始祖とも言える柳田國男が「我々のような妹を持たぬ男たち」[15] と嘆いたように、 幼なじみを持たないわれわれが、 その対幻想が要求する共同性を求めるべき地平は遠いのかもしれない。

参考文献

[1]
ラブひな, 第 1巻〜第 8巻, 赤松健, 講談社, 1999年 3月〜2000年 7月.
[2]
異人論, 赤坂憲夫, 筑摩書房, 1992年 8月.
[3]
竜潭譚, 鏡花短篇集, 泉鏡花, 岩波書店, 1987年 9月.
[4]
劇場版カードキャプターさくらコンプリートブック, CLAMP, 講談社, 1999年 10月.
[5]
ライン川にかかる橋, 中世の星の下で, 阿部謹也, 筑摩書房, 1986年 12月.
[6]
TV アニメ『ラブひな』ナビゲーション・アニひな, Ver. 1 ―内風呂編―, 講談社, 2000年 8月.
[7]
天と地をつなぐ階段, 飯島洋一, 階段物語り, INAX 出版, 1993年 12月.
[8]
ラブひな 0, 赤松健 & 週刊少年マガジン編集部監修, 講談社, 2000年 7月.
[9]
木造三階建ての宿, 西田成夫, サライ, 第 5巻第 21号通巻第 100号, 小学館, 1993年 11月.
[10]
近代和風建築, 村松貞次郎・近江榮, 鹿島出版会, 1988年 6月.
[11]
死の国・熊野, 豊島修, 講談社, 1992年 6月.
[12]
システムと儀式, 大塚英志, 本の雑誌社, 1988年 8月.
[13]
東大一直線, 小林よしのり, 徳間書店, 1991年 8月.
[14]
東京大学物語, 江川達也, 小学館, 1993年 9月.
[15]
妹の力, 柳田國男, 筑摩書房, 1990年 3月.

YASUDA Hideyuki
Last modified: Sat Aug 5 23:58:53 JST 2000
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