さくらと近代の超克 (暫定版)
(CC さくらのストーリーに大幅に言及していますので、 アニメや原作をこれから見ようという方はご注意下さい)

ヨーロッパとアジア
『カードキャプターさくら』で主人公の木之本桜が使う「クロウカード」は、 上部に日本語・下部に英語が記された二言語併記となっている。 この、「上が日本・下が西洋」という配置から、 和風屋根を西洋建築の躯体に載せた帝冠様式を連想したのは筆者だけだろうか。クロウ・リードがイギリス人と中国人の混血であり、 クロウの魔術が西洋魔術と東洋魔術の混淆であること、 ヨーロッパとアジアの境界の地としての香港が 物語の転換の場所としての役割を果たしていることを考え合わせると、 ヨーロッパとアジアとの対比は『CC さくら』において大きなモチーフとなっていることがわかる。
この「ヨーロッパ性とアジア性の対峙」は、まさに「近代の超克」[2] という議論に深く関わるものである。
「近代の超克」とは雑誌『文学界』が 1942 年に行なった座談会およびその内容をまとめた単行本の名前である。 近代とはヨーロッパ合理主義とそれを基盤とする現代文明であり、 その行き詰まりを超克 = 乗り越えなければならない、 というのが近代の超克論と言えるが、否定されるべきヨーロッパ性とは何か、 その対案として持ち出す日本的あるいはアジア的な思想・文化とは何か、 そもそもそれらを持ち出すべきか、 といった点で座談会出席者はそれぞれまったく異なる立場を取っている。このような、 それ自体は〈思想〉というより問題提起にすぎない用語であるにも関わらず、 近代の超克論はファシズムを支えた思想として断罪されることが多い。 しかしこの問いは、単に日本の外交方針といったレベルに留まらず、 日本社会に生きる人間のアイデンティティそのものを左右する重みを今日なお持っている。
帝冠様式が、 戦前戦中の日本建築からの近代の超克論への回答の一つであるなら、 『CC さくら』もまた、 この問いに対する戦後日本の大衆消費文化からの答として読むことができるはずである。
以降では、各登場人物の象徴的役割に注目することによって、『CC さくら』の近代の超克論の文脈での解釈を試みる。
クロウ: 二重の両義性を持つアメリカ

この「ヨーロッパ性とアジア性を兼ね備えた存在」としてのアメリカと 重なるのが、前に述べたとおり
黒船にはじまり、太平洋戦争・プラザ合意・ ニューエコノミーと続いてきた日本が近代と向き合うための試練はまた、 アメリカから与えられた試練でもあった。 同時にアメリカは、明治・戦後の日本の近代化を支えた存在という面をも持つ。 クロウの二つの分身である、 試練を与えるエリオルと、やさしいお父さんとしての藤隆は、 このアメリカのもう一つの両義性を表すとともに、 物語の最後でさくらがエリオルを越える力を身につけたように、 このアメリカ観を捨ててアメリカを乗り越えなければ、 日本人は大人になれないことを暗示しているように思えてならない。
ケルベロス: 内なるヨーロッパとの共生
「近代の超克」座談会の時点ですでに下村寅太郎はしかし現代の我々に於てヨーロッパは既に単なる他者ではない。 我々の先人や我々も事実上近代の西洋を見に着けることに努力し、 それに於て成長して来た。と述べている。 それから半世紀以上を経た今、 われわれの生活にはヨーロッパおよびアメリカが完全に定着している。 アメリカンコロニアル様式の木之本家をはじめとして、 さくらの日常生活の場である友枝町の家や学校のほとんどが、 西洋建築・近代建築に分類されるものである (例外が雪兎の家と月峰神社であり、 これらは物語中では非日常的な出来事の舞台となることが多い)。
ギリシャ神話に由来する名を持ち、 近代主義を暗示する「モダン焼き」にこだわりつつ、 さくらの部屋で共同生活を行なうケルベロスは、 さくらとわれわれの〈内なるヨーロッパ〉の象徴ではないだろうか。
ユエ: 幻想のアジア主義との訣別
ケルベロスのシンボルである〈太陽〉がヨーロッパ性をあらわすと仮定すると、
対応する〈月〉をシンボルとし、〈月〉の中国語読みで呼ばれるユエはアジア性を表現していることになる。
だとすると、ユエの仮の姿である雪兎に対するさくらの求愛と、
それに対する雪兎の拒絶は何を意味するのだろう。
さくらの告白がこのアジア主義の提唱に対応すると考えれば、 さくらの雪兎に対する感情が「お父さんが大好きな気持ち」と似た 「家族みたいに好き」である、という雪兎の言葉は、 アジアを家族 = 血統と歴史を共有する自分と同じ存在として考えるかぎり、 その対象は、お父さん = 日本自身の過去の姿へのノスタルジーか、 雪兎/ユエ = 生身の人間ではない幻想の存在でしかありあえず、 他者としての現実のアジアの人々とは未来を共有しえない、 という反論であると言える。
それでは、日本人にとってアジアはパートナーたり得ないのだろうか。 その答はアジアを象徴するもう一人の人物に見ることができる。
小狼: 他者としてのアジアとの再契約
さくらと香港出身の李小狼との間には、 クロウの生まれ変わりであるさくらの父・藤隆と、 クロウの母の実家である李家とを介した間接的な遠縁の関係しかなく、 育った環境もまったく異なる。さくらの魔力「星の力」もまた、 〈日本人〉を象徴する名を持つもう一人の少女である母・撫子から 受け継いだもの、あるいはさくら自身が作り出したものであり、 〈月〉の力を主体とした小狼の魔力とは異なる。 さくらにとって小狼はあくまで〈他者〉である。このことは、日本は人種的・歴史的にはアジアの血を引いているものの、 文化的・ 文明的にはアジアとは異なる独自の存在である、 という梅棹忠夫的史観 [4] で解釈できる。現実のアジアは 日本と歴史の一部を共有するものの、あくまで別の道を歩んでいる。
にも関わらず小狼は、 はじめはクロウカードを集めるさくらのライバルとして登場するものの、 しだいにパートナーに転じてゆき、 ラストではさくらと互いに「いちばん好き」と告げ合うに至った。 その理由は物語中では明確な形では示されていない。
ヨーロッパ性とアジア性を兼ね備えながらも、 ヨーロッパそのものでもアジアそのものでもない、 「自分で光りつづけ」なければならない存在である日本社会、 それを悟った上で、それでもなお日本にとっての「いちばん」 はアジアであることを知ったときにはじめて、日本人はアジアと 「ずっといっしょ」に世界という友枝町で生きることができるのではないだろうか。

参考文献
- [1]
- カードキャプターさくら, 全 12巻, CLAMP, 講談社, 1996年 11月〜2000年 7月.
- [2]
- 少女民俗学, 大塚英志, 光文社, 1989年 5月.
- [3]
- 近代の超克, 河上徹太郎・竹内好他, 冨山房, 1979年 2月.
- [4]
- 文明の生態史観, 梅棹忠夫, 中央公論社, 1967年.

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